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***「ぶつぶつ」って10回言ってごらん 「つぶ」になるから***
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我輩は猫である











中学教師苦紗弥先生の書斎に集まる
明治の俗物紳士たちの語る
珍談・奇譚、小事件の数かずを、
先生の家に迷いこんで飼われている猫の眼から 風刺的に描いた、漱石最初の長編小説。
江戸落語の笑いの文体と、
英国の男性社交界の皮肉な雰囲気と、
漱石の英文学の教養とが渾然一体となり、
作者の饒舌の才能が遺憾なく発揮された、
痛烈・愉快な文明批評の古典的快作である。

--- 文庫本カバーより ---



声を出して笑ってしまう所があるかと思えば
めんどくさくなって
さらっと読み流してしまう所もあったりして
漱石さんごめんなさいって感じした。
なんせ昔の言葉とか言い回しとか
そういうのが理解できないし
漢字が多いし、、、
かといっていちいち注解を見ながら
読むのも疲れるしって感じだったので。


我輩君の最期は
ビール飲んで酔っ払って
大きな甕(かめ)の中に落ちて死んでしまうのだけど
最期のあがきの際に
「生」に執着しないところが良かった。
でも
もっと生きて人間観察をして欲しかったなぁ
とも思ったりもしました。
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三部作の前作「三四郎」で描かれた淡い恋愛は、
この作で、より深刻な人間的苦悩にいろどられる。
自然の情念に引きずられ、
社会の掟にそむいて友人の妻に恋慕をよせる主人公の苦しみは、
明治四十年代の知識人の肖像でもある。
三角関係の悲劇を通して漱石が追及したのは、
分裂と破綻を約束された愛の運命というテーマだった。
明治四十二年作。

---文庫本カバーより---




親のお金で働きもせず
口ばかりは一丁前な代助だけど
そんな風にしてしまったのは
親がいけないんじゃない?とも思ったりしたけど
ひとりの人間を一丁前にするということは
他人がどうこう言えるような
そんな簡単な事ではないですよね。
登場人物には感動も共感もしなかった。
でも内面的な心理描写は
おもしろかった。 
昨日の日記にかいた
たまやのたまは
たまじゃなくて
ノラや(内田百閒)のノラであった。(笑
猫といえば「たま」でしょってな勝手な思い込みが
間違いを起こさせてしまったようだ。
苦沙弥
とん子
すん子
坊ば
迷亭
鼻子


どれもこれも
面白楽しい命名です。


最初は数ページ読んだきりで
閉じてしまった本だけど
最近読む本がなくなっちゃって
また読み始めたら
なかなか面白い。
でも所々
さーっと読み流してしまう所も
あるんだけど、、、(^^;


吾輩君はすごい洞察力をもっているね。

そして
吾輩君は
可愛がられ方が
たまやのたまとは違うね。
我が家に連れてきて
溺愛したくなってしまうよ。笑。

まだ読みかけの「我輩は猫である」より
久し振りに写メ撮って
まーさとゆいに送った。










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